ニューマチックケーソン工法の歴史
| 圧気を利用した地盤掘削が世界で初めて行われたのは、1841年のフランスのM.トリジェール(M. Triger) によるフランス・ロワール川内の砂洲での鉄筒による掘削・沈設といわれています。この工事では、エアロックを発明したM.トリジェールが、地上で構築した約1mの鉄製円筒状の基礎の上にエアロックを被せ、筒内に圧縮空気を送り込むことにより充満した水を排除し、作業員が筒底に降りて地下水面下約20mまで掘進・沈下させることに成功しました。これがニューマチックケーソン工法の原型とも言われるもので、その後、ヨーロッパに広まったこの工法は、やがてアメリカに渡り独自の発展を遂げました。 | |||||||||
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| 当時の掘削作業はすべて人力で、減圧症(ベンズ)も知識不足から多発するなど、さまざまな問題を含んでおり、当時の作業員の賃金も苛酷な労働環境を反映して極めて高く、人力依存度が高い非能率的な工法でもあったことから、きわめて高価な工法でした。 ちなみに、減圧症予防の対策が整えられるようになったのは1910年頃からで、すでに1000人以上がこの病気に冒された後でした。 しかし、大規模な地下構造物の施工法が他になかったため、欧米においては、1930年代までこの工法が盛んに用いられ、技術開発も進められました。 わが国では、1923年(大正12年)の関東大震災の震災復旧事業として米国から技術を導入し、破壊された永代橋、清洲橋、言問橋の新設工事として初めて採用されました。 |
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| その後、ドイツを除く欧米においては、鉄鋼製品や建設機械の開発が進み、長大鋼杭やオープンケーソンなどの新工法が開発されると、高価で労働条件が過酷なこのニューマチックケーソン工法は嫌われ、1930年代の10年間に、急速に採用されなくなってしまい、その傾向は現在まで続いています。 これに対して、日本とドイツでは、第二次世界大戦の最中でも、ニューマチックケーソンが営々と採用され続けました。これは、両国とも絶望的な戦争の渦中にあったため、特に日本ではアメリカと違って、軍用以外の目的に鋼材等の重要資源を割り当てる余裕が全くなく、ニューマチックケーソンを凌駕するような鋼材多用の新工法を開発する余力が全くなかったためでした。 日本の場合、戦後の経済復興が進み、1955年(昭和30年)から高度経済成長時代に入り、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを目指して、東海道新幹線や高速道路の整備などの建設投資が大々的に行われるようになりました。そのような情勢下、1962年(昭和37年)以降になると、ベノト工法やリバースサーキュレーション工法などの大口径場所打杭工法および連続地中壁工法などの国内への導入・普及により、ニューマチックケーソン工法の適用領域がおびやかされ、ニーズが減少しました。 しかしながら、欧米と異なり、日本ではこの工法が消滅することはありませんでした。 その理由は、他工法との競争への生き残りを賭けて、高能率で低価格な工法にするための懸命な技術開発が行われ、圧気作業室内における掘削作業の機械化(天井走行式掘削機など)、合理的なケーソン基礎構造物の設計手法の確立、主要な作業の遠隔操作による無人化技術などの技術革新とコスト縮減に成功したからです。 また、1964年(昭和39年)6月の新潟地震では、ニューマチックケーソン工法を採用した萬代橋での被害がほとんどなく、1995年(平成7年)1月17日の兵庫県南部地震でもニューマチックケーソン工法で施工したものは被害をほとんど受けなかったことから、ケーソンは予想以上に地震に強い構造物という事実が判明し注目を集めています。 |
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